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【ホラーテラー】道端の石積み

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何年か前、俺が大学生かつ資格学校生だった頃。
山ばっかりの某N県に住んでいた俺は、資格学校へ行くにも車で4~50分かかっていた。
途中には峠道もあり、明りもごく少ない山の中を予備校へ行くなんてのは、
都会で電車通いしてる人たちには想像しづらいかもしれないが。
山道と入っても一応国道で、途中には民家はもちろん飯屋だの診療所だのホテルだの、いくつかの建物がある。
その中の、今はもう無い、寂れた診療所の話。

通り過ぎるたびに気になっていたんだが、その診療所の脇にスネくらいの高さの小さな石積みが一つあった。
いつも通るのが夕刻過ぎだったため、周囲は暗がりで街灯も無かったが、
診療所の玄関灯のおかげで何とか見えるといった程度のものだ。
花なんかがいけてあることもあったので、事故かなんかで不幸があった人か、ペットの墓代わりかなあなんて思ってた。

資格学校へ行き、出先の近くで夕食を取り、車で帰る暗闇の山道のさなか。
あの診療所の前を通りがかったときだった。
ガスッ…
何かを引っ掛けたような気がした。
猫?狸?まさか、人じゃないよなあ!?
慌ててブレーキを踏み車を停めて、音の聞こえた辺りへ歩いて戻る。
この時気付いたんだが、徒歩で明りの乏しい山の中を行くのはすごく気味が悪い。
よく分からない何か生き物の声。風か、そうじゃないものが蠢いて響く草鳴り。
巨大すぎる闇の中で、恐ろしくちっぽけに思える自分の手足の無力感と来たら。
運転していたときはまったく気にならなかった。こんなに心細いものなのか…。
診療所の古めかしく明滅する玄関灯が、むしろ不気味な雰囲気を煽る。
例の石積みが目に入った。やたらでかい蛾の死骸なんかが横に落ちており、申し訳ないけど大変不気味だ。
そう思ったとき、何かが俺の横を通り過ぎた気がした。
振り向いたが、道端に停めた俺の車があるだけで、あとは鬱蒼として木々が風に少し揺れているだけだ。
さっき何かに当てたと思ったのも気のせいのようだ。そう思って車に戻り、エンジンをかけた。
人工物に包まれて、ちょっと安心した。
その瞬間。バックミラーに人が映っている。
暗闇の中、青白い輪郭が見えた。
俺の車は親父のセダンだったんだが、ソレは、車のトランクの向こう側から俺を見ていた。
おれは驚きでギャアと悲鳴を上げた。
同時に、人だった!俺は人にぶつけていた!という申し訳なさと恐怖に我を無くしかけ、車のドアを思い切り開けた。
しかも、人影は女性っぽかった気がする。
小者な俺はもう縮み上がっていた。
女の人に怪我させるなんて!
しかし、そう思いながら車から降りると、
先程と同じ様に山の中特有の物音が際立たせる静寂が、闇とともに俺を包んだだけだった。
車の周りをいくらはいつくばって探しても、猫の子一匹いない。うめき声すら聞こえない。
馬鹿な…。あんなにはっきり見えたのに…。
そうなると、今度は別の恐ろしい考えが浮かんでくる。
俺はオカルトの類は基本信じていなかったんだが、夜の山道ひとりぽつねんとしていると、枯れ尾花も幽霊に見える…。
恐る恐る車に戻り、バックミラーを見た。誰もいない。
俺はほうほうのていで家へ逃げ帰った。

それから暫く、その辺りを通るときは絶対にミラーを見ないようにしていた。
視界の中で、鏡に青白い影を認めるときがあったが、絶対に正視しなかった。

そして数日後。
俺は実家住みだったんだが、ある日、俺以外の家族が皆で祖母の家に泊まりに行くことになった。
俺は当時資格取得にすべてをささげる日々だったので、この時は申し訳ないけど遠慮した。
家族が出発した日の夕方、俺も家を出て資格学校へ向かった。
無事講義と課題を済ませて帰り道、またあの診療所の前に差し掛かった。
「見ない、見ないぞ、いや違う、何もないんだ、何も…」
ブツブツ言いながら通り過ぎようとすると、また車にバスッ…と何かが当たった感覚があった。
思わずバックミラーを見る俺。そして思い切り後悔した。
リアウインドーに、青白い女がべったりと貼り付いている!
「うわああああああ!」
人間が車体に貼り付いていると、たとえ生きた人間じゃないと思っても、ブレーキを踏んでしまうものなのかもしれない。
俺は急停止して(じゃないと事故らない自信が無かったし)、ハンドルにしがみついて震えた。
そのままゆっくりとバックミラーを見た。
いない…。
勘弁してくれ…。
心臓がガツンガツンガツン…と鼓動していた。
気が付くと今俺が止まったのは診療所のまん前だった。
恐らくそこのご主人だろう、おじいさんが俺を見て目を丸くしている。
ばつが悪い。悪すぎる。
あいまいな笑みを浮かべ、ともあれ俺は走り去ろうとした。
すると、おじいさんの方から話しかけてきた。
「あんた、大丈夫かい?女を見たんじゃないかね」
「何で分かるんですか!?」
「やっぱりか…。ちょっと上がりなさい」

診療所は以前から閉めているようだった。診療室のほうは使っている気配がない。
二階の生活スペースのへ通してもらい、奥さん(もちろんおばあさん)がお茶を入れてくれた。
俺は自分の身に起こったことを一通り説明した。
おじいさんが言う。
「あんたが見たのはさ、恐らく以前うちに通っていた女の人だよ。
 ずっと昔はうちは産科をしていてさ。
 突然容態が悪化して運び込まれたものの、流産した女の人が一人いたんだが。
 男にはとうに逃げられていたらしいんだがね、一人でも産もうとしていたんさ」
おばあさんが当時のことを思い出したのか、顔を伏せた。
「ショックのあまり、少し回復した頃にその本人も、ここの前をふらふら歩いていて、車にはねられてね、死んじまった」
「じゃあ、その女の人が…」
「たまに化けて出るんさ。特にドライバーに。それが原因で自殺や事故に遭い、命を落とした人もいる。
 表立ってそうとは報じられないけどな、わしらはそう思ってる」
おいおいおい………
何だかもうお茶の味がしない…。
「じゃあ、この道を通るたびに、俺はその幽霊に出会っちゃうってことですか?」
嫌過ぎる。この山道には高速使う以外に迂回路などないのだ。
「いや、そんなことはないよ。そりゃ、地縛霊ってやつだろう?
 車に貼りついてたんなら、もう取り憑かれてしまっているな」
「ええええ!?」
じょ、冗談じゃない!
「前の人のときもそうだったからな。たぶんそうさ」
おばあさんがうなずいている。
「ま、前の人!?その人、どうしたんですか?」
「そこかしこに例の幽霊見るようになってなあ。いよいよ参って、首を吊る寸前で憑いた元のうちに相談に来た。
 で、うちに一晩泊まっていったら剥がれたみたいだな」
泊まっただけで…?
怪訝な俺の表情を見て、爺さんが補足する。
「当時、わしに祈祷師みたいな友人がいたんさ。
 ほれ、そこに畳敷きの和室があるんだが、そこへ塩盛ってもらって、札貼ってもらって、一晩閉じこもったんだ。
 そしたら、翌朝には憑き物がどうも落ちていた」
「その札とかって、今でも…」
「とってあるさ」
小者な俺にはもう選択肢はなかった。
「ぶしつけですが、今晩泊めていただけないでしょうか!?」

襖に仕切られた和室の内側にべたべたと何枚もお札を貼り、四隅に塩を盛って、俺は準備を整えていた。
夜はすっかり暮れきって、また得体の知れない鳥類らしき物の泣き声が診療所の外から響く。
夜の闇の中、この一帯にはこの診療所しか光源が無い。
これが昼間ならまだ自然を楽しむ気も起きるんだろうが、今はひたすらおどろおどろしいだけの夜気が外を満たしている。
しかし、このお札ってだいぶ毛羽立っているんだが、使用期限とかあるんだろうか…
俺は寝巻きに着替えたじいさんたちにお礼を言い、さあいざ閉じこもろうとしたら、じいさんが言った。
「今晩の注意点は二つだ。まず、絶対に自分からこの襖を開けないこと。あと、霊に接触しようとしないこと」
「頼まれてもしたくないですが…一応理由とか聞いていいですか?」
「祈祷しまがいの奴の受け売りだがね。
 ここに出る女の霊というのは、成仏できない魂といったものではないそうだ。
 我々の知る言葉で表現するなら、死者が現世に残した『思い出』のようなものらしい」
「思い出、ですか…?」
「それ自体は単に現世に漂うだけの、消えるのを待つだけの雲みたいなものだ。
 だから基本的に成仏というものはない。本人じゃないからな。
 ただ、自分に興味を示してくれるものには必死ですがり付いてくる。それがその相手を害することになってもだ。
 誰からも永遠に忘れられてしまう、それが思い出にとっては一番恐ろしいことだ、ということらしいな。
 だから自分から迎え入れるような素振りを見せちゃあいかん」
「俺、そもそもその女の人に興味なんて持ってないですよ。何で俺に?」
「何か、この辺りで気にかかったものなんかは無かったかい?」
この辺りで?何も無いじゃないか、この辺りなんて……あ。
「ここの横に、石積みがありますよね?小さい墓みたいなやつ」
「ああ、昔あったな。その女を悼んで作ったものだが、いつの間にか崩れて無くなってしまったな」
「いや、今でもありますよ。俺、夜通るときに見てましたもん」
おじいさんが顎に手を当てて言う。
「わしは毎朝玄関前を掃除するのが日課だが、あんなものはとうに無いぞ。
 …ひょっとしたらそれが、女の幽霊の仕掛けた気引きではないのかな」
え…それってつまり…
「気にしたもん負けってことですか…?」
「組し易しと見たんだろうな。人が良さそうだ、憑きやすそうだと」
うれしくない。全然うれしくない。なんか俺って、つくづく小者な感じだ。
「とにかく、部屋から出ない。襖も窓も開けない。そのまま朝までがんばれ」
「はい」とうなずいて、俺は襖を閉じた。
おじいさんたちは一回の奥にある寝室で寝る。さすがに一緒に寝てくださいとは言えない。
これで今晩は一人きりだ…。
窓の外を見る。木、空、地面…。
本当にいちいち全部暗いんだよ、畜生。こええよ。
まあ俺なんて単純なもので、思い出という単語の語感で少し気が楽になった。
おじいさんの許可はもらっていたので、電気もつけっぱなしだ。
そして小者はさっさと寝るに限る。
敷いてもらった布団に服のまま入り、目を閉じた。
部屋は明るくはある。しかしさっき限りの無い暗闇を見た俺には、山の物音とともに不安が押し寄せてきていた。
この明るい部屋が、大海原でぽつねんと一つ残された小船のように思える。
いつ転覆するか分からない。
周囲には誰もいない。
この世界でただ独りになったような錯覚…
気のせいか、木々の音に混じって人の声が聞こえるような気がする。
あけて
ここをあけて
気のせいだ。ただの耳鳴りだ。ビビッてるせいだ。
俺は頭まで布団に篭らせた。
…いや、まだ聞こえる。なんだ、なんて言ってる…?

わたしをそこへいれて…
わたしをわすれないで…

ううわあ…段々はっきりとした言葉に聞こえてきた。
両手で耳をふさいでも、止まらない。何でだよ!?
汗が額から吹き出てきて、耳を覆う手もぬるっと滑った。
自分の歯がゴチゴチ鳴る音がうるさい。

ねえ
ねえ
ねえ!

うるせえよ!あっちいけ!

ほとんどパニックになりかけていたとき、隣の部屋から物音がしたので、意識が覚醒した。
襖の向こうからほんの僅かにもれる明りで、向こうの部屋にも電気がついたのが分かる。
「だ、誰ですか!?」
襖越しに声を掛けた。
「ああ、起こしてしまったかい、済まない。ちょっと様子を見にきただけだ。なんとも無いかね?」
おじいさんに続けて、おばあさんも声を掛けてくれた。
「大人しくしてるんですよ?」
まるで孫扱いだな、参るなあ。
しかし次の瞬間、隣の部屋の様子が変わったんだ。急激に空気が張り詰めたのが分かる。
「お前は…お前…どうして…」
おじいさんがそういったまま絶句している。
なんだ、突然。誰がいるんだ?
そしておじいさんが俺に叫んだ。
「君、逃げろ!今すぐその部屋を出て逃げるんだ!そこにいてはダメだ!」
なんでなんでなんで?
今度こそパニクッた俺の耳に、おばあさんのうめき声が聞こえた。続いておじいさんの怒鳴り声。
「お前、やめろ!うちのを放せ!くそ!」
おばあさんに何か危害が加えられ、おじいさんがその犯人を食い止めようとしているようだ!?
「君、頼む来てくれ!うちのを助けてくれ!ああっ、あっ、やめろ…!」
襖の向こうではただならないことが起きているようだ。
俺は小者だ。小者は臆病で卑怯だ。小者な人には分かってもらえると思う。
けれど、小者は自分より弱いものがひどい目に合わされているのを無視は出来ない。
それが自分のことが発端であれば尚更だ。
ビビッてる場合じゃねえ!
俺は気合を総動員して立ち上がると、襖の前に仁王立ちし、覚悟を決めて襖を開け放った。
勢いでバシン!と音が響いた。…暗闇の中に。
そのときの俺は一瞬思考停止してた。もしかしたら心臓だって止まってたんじゃないかと思う。
そのときの俺の目の前の光景を説明すると、
…まず、おばあさんはそこにいなかった。というかおじいさんもいなかった。
誰の声もせず、山の音も聞こえず、すっかり静まり返っていた。時間が止まったみたいだった。
そして隣の部屋は真っ暗だった。さっきは確かに二人の声もして、部屋の明りもこぼれていたのに。
はめられた。そう思った。
暗闇の部屋の中、襖を開け放った格好のままの俺の目の前に青白い女が立っていた。
俺はその顔をはっきりと見た。
恐ろしく白い。無表情に近い。
けれど顔面の僅かな表情の歪みに、凄まじい感情が篭っているのが分かりすぎるほどに分かる。
もう俺を凍りつかせているのは、驚きではなくて恐怖だった。
『思い出』じゃない。これは『思い出』なんて生易しいもんじゃない。女の感情が読み取れるにつれてそう確信した。
これは激しい、とても激しいが、憤怒じゃない。もっと最悪の奴だ。憎悪とか、怨恨とか、名付けるとしたらそういうの。
俺は思いっきり悲鳴を上げた。喉が切れるかと思った。
女はあっさりと和室の仲に踏み込んできた。
何で、何で開けちまった、俺!俺!
てか俺はあんたに何もしてないぞ、無関係だ、どっか行け!
もう小者の悪い面が全開で、後ずさりしてつまづき、布団の上にへたり込んでしまった。
女が俺の首に手を伸ばしてきた。女の真っ白な体に飲み込まれるように、俺の意識も白濁して行った…

白くぼやけた視界の中で、俺はいつの間にか夢のようなものを見てた。
あれ、ここどこだ、女はどこ行った…?
夢の中で、俺はどこかの部屋の中にいるようだった。体の自由が利かない。
勝手に視界が巡って、鏡を見た。
驚いた。俺はあの青白い女の顔をしていた。ただ、肌は健康な肌色。
これはもしかして、あの女が生きていたときの記憶か?と当て推量で思った。多分当たりだと思う。
俺=女はベッドにいたんだが、腕の中におくるみがあり、その中に動きがある。顔は見えないが、これは赤ん坊だ。
なんだ、流産なんかしてないじゃねーか…
ぼやけてよく見えないものの、この部屋はえらく生活感があるというか、
病院なんかじゃなく普通の一戸建てのように思える。
すると女の視界に、壮年の夫婦が入って来た。
俺はギョッとした。それは俺を泊めてくれた老夫婦だった!少し今よりも若いが間違いない。
よく見るとこの部屋は俺が泊めてもらった部屋だ。
じゃあなんだ、この女、あのおじいさんたちの娘さん!?
そんなこと一言も言ってなかったぞ!?まあ、言う義務もないけど…
しかし、妙な違和感を感じた。
夫婦が俺=女に向ける視線が変だ。何か軽蔑するような、汚いものを見るようなまなざし…
よく見るとそれは女本人じゃなく、腕の中のおくるみに注がれているようだ。
女の視線がおくるみへ動く。その時布が少しだけはだけて、赤ん坊の顔が初めて見えた。
その様子を詳しくは書きたくない。
ただ、頭部が一般的な形とはかけ離れていたんだ。
医学の知識なんてない俺が見ても、何年も生きられるわけじゃないんじゃないかと思えるような形。
でも女の暖かい気持ちは、しぐさや視線から俺にも伝わってきた。
少なくともこの子には、たった一人は味方がいるんだ、と思った。
その時部屋の窓の外に一人の髪の長い女の影が見えた。恨みがましい目でこっちを見ている。なんだ、いったい?
次の瞬間、女が目を開けると、時間が動いたらしく、すっかり夜だった。
同じ部屋の天井が見えた。そのすぐ横に、昼間の長髪女がいた。
それまでほとんど無音だったんだが、長髪女の声ははっきりと聞こえた。
「いいわね、親が医者だと、安心して産めて。あたしなんて二度も下ろしたのよ…」
長髪女は傍らの赤ん坊をおくるみごと抱え上げた。
「あんたはまた産めばいいわね、親が医者だもんね。この子、あたしが育ててあげる…」
そう言う目が普通じゃない。この長髪女はおかしい。
起き上がろうとする俺=女を殴りつけ、長髪女は走り去って言った。
俺=女が助けを呼んだようだった。
俺=女は立ち上がろうとしたが、どうも脚に何か不自由でもあるらしく、あまり速く動けない。
窓の外に走り去る長髪女が見えた。思わず窓にかじりつく。
すると長髪女の後を、過去のおじいさんが追いかけるのが見えた。
おじいさんは健康な男だし、今より若い。暗い車道の上で、長髪女に見る見る追いついていく。
行け!取り返せ!
…しかしどうしたことか、おじいさんはあと一歩というところでスピードを見る見る落とし、とうとう立ち止まってしまった。
長髪女はすぐに夜の闇の中に消えてしまった。
振り返り、診療所に戻ってくるおじいさん。
俺=女は思わず窓から離れ、身を隠した。理由は分かる気がした。
戻ってくるおじいさんの顔には、悔しさや怒りというより…安堵のような表情が浮かんでいたからだ…
翌日、俺=女はフラフラと家の玄関を出た。
太陽の感じからして朝のはずだ。視界もふらつく。寝てないのかもしれない。
家の周りをなんとなく見回していると、家の塀の脇に何か落ちているのが見えた。
たどたどしく歩いてそれに近づく。
なんだあれ?……おい。やめろ。歩くのをやめろ。それに近づくな。
俺=女の視界が震えでブレていく。
やめろ!それを見るな!
女がそれの目の前で、とうとうしゃがみ、それを手に取った。
見ないでくれ!
長髪女は知らなかったんだ!この女がいつもおくるみにすっぽり入れていたから、どういう赤ん坊か知らなかったんだ!
思っていたのと違ったんだ!こういう赤ん坊だと思わなかったんだ!
だから捨てた!ここに捨てやがった!厄介者みたいに、もういらないって!
愛されてたのに!
少なくとも一人だけは自分のことを愛してくれる人の腕の中で、短かったかもしれないが、一生を送ることが出来たのに!
こんな、ゴミみたいに!何の価値も無いものみたいに!価値はあったのに!
もとあった場所に返しますってか!?あたしはもう要りませーんってか!?
赤ん坊の頭が赤黒く乾いた液体で染まっている。脇の石塀も同じ色だ。
……石塀に向かって投げ捨てやがったんだあいつは!!!
赤ん坊が冷たく、固くなっていたのが分かった。
女は立ち上がろうとした。しかしやはり足が悪いせいで、よろけた。…車道側へ。
そこへ明らかにスピード違反のスポーツカーがブッ飛ばしてきた。
俺の白い夢の視界が真っ赤に染まって、夢が終わった…。

気がつくと俺はさっきと同じ部屋で、青白い女の幽霊に首を絞められていた。
もう肺の中の酸素が残り少ない。視界がチカチカしてきた。やばい…
『女本人』はとうにあの世にでもいってるんだろう。
この幽霊からは思考能力や人格みたいなものは感じられない。それは霊媒師とやらのいうとおりなのかもしれない。
ただの、ただの憎悪の名残だ。その強さからして、『思い出』なんて呼び方は不適当な代物だ。
けど、こいつはどうなる?こんな所に置き去りにされたこの感情は、どうされるべきなんだ?
本人ですらない、ただ誰かを憎み続けるだけのこいつは?
あんな思いをしたのに、何も報われることもなく、誰かを傷つけっぱなしで、いずれ消えていく。そんなんでいいのか?
こいつも何か報われるべきなんじゃないのか?
天国があるのかどうかは知らないが、もしあるなら女本人はとっくにそこに行っているだろう。
ずっと辛いままなのはこいつだけじゃないのか?何か思いを遂げさせてやることは出来ないのか?
ああ、でも今のこいつの目的は俺に憎悪をぶつけて、俺を殺すことなのか…
俺はさっきの夢のおかげで、青白い女にすっかり感情移入してしまっていた。
異常な状況が続いて、えらくセンチになっていたのかもしれない。
そうなると小者特有の弱気ループだ。
別に俺がここで死んだって、奥さんや子供がいるわけじゃなし、そんなに悲しんでくれる人っていない気がするな…
親とかって俺が死んだら泣いたりするのかな…あのおふくろが泣くとことかって全ッ然想像できねーけど…
ここでちっとは人の役に立って死んでもいいのかな…あ、人じゃねーや…
普段なら絶対に陥らないような考えが渦を巻いて、酸欠もあって頭が回らなくなってきた。
いいっすよ、俺なら…全然小者なんであなたの無念を晴らすには全然足りないと思うけど…ちっとは気が済むんなら…
すると心持ち、女の手が緩んだような気がした。火花が散る視界の中だったが、女の表情も少し緩んだような気がする。
あれ、いいの…?
視界の火花がゆっくりブラックアウトして行った…

「君!」
おじいさんの声が聞こえた。
今度は本物か…?
目を開けると、まだ夜だった。
「様子を見に来たら襖が開いているし、ひどくうなされているし…大丈夫か?」
「ああ…なんか、大丈夫みたいです。もう…」
おじいさんは「君はちょっと心配だから」と、隣の和室に新しく布団を敷いて寝てくれた。
そしてその後は何事もなく夜が明けた。
朝になってみてみると、俺の首にはうっすらと赤く手のあとが付いていたので、かなりゾッとした。
こうして俺の人生唯一の心霊体験が終わったのだった。

俺は夫婦にお礼を言い、朝食をご馳走になってから、おいとますることにした。
夫婦は玄関先まで俺を見送ってくれた。
俺は特におじいさんに聞きたいことが色々あったが…
あの長髪女はその後どうなったんですか?
赤ん坊の父親はどうしたんですか?
娘さんやお孫さんのことを、本当はどう思ってたんですか?
今ではどう思っているんですか?
何故、幽霊のあらましについて嘘をついたんですか?
夜俺にどんなことが起こるのか、どこまで知っていたんですか?
まだここに残っているであろう『思い出』のことをどう考えているんですか?
何故石積みが崩れたとき、直さなかったんですか?
何故その祈祷師まがいとやらに、『思い出』を根絶するよう頼まないで、対症療法みたいなことだけしてたんですか?
何故、石積みの墓は一つしか、一人分しか作らなかったんですか…?
他にも色々…。
しかし、聞くのはやめた。
無関係の俺がほじくり返していい話ばかりではないだろうし、おじいさんも正直に話す義理はない。
何よりきっと、この夫婦も俺と同じで、
今でもきっといろんなことが、自分のことが、『分からない』ままなんじゃないかと思えたからだ。
俺は車に乗り込み、発進前にバックミラーを見た。あの女も石積みも見えなかった。
それが夜が明けたせいだけではないと思いたい。
アクセルを踏んで、俺は家に帰った。

それから夜間に何度あの山道を通っても、幽霊に遭遇することはなかった。少しは気が済んでくれたのだろうか。
資格を無事取得し、その後東京で就職した俺は、もうあの山道を走ることは極めて稀だ。
今年の頭に帰省したとき、用事があって昼間だったがあの道を通った。
少し緊張しながら診療所の場所に差し掛かったんだが、診療所は奇麗さっぱり消えていた。
この辺りには知り合いがいないので、あの夫婦が今どこでどうしているのかは分からない。
今となっては全部夢だったんじゃないかとも思える。
正直なところ、あの首の手のあとが消えてしまう頃、それを少しだけ寂しいと思った。
もう一回くらいあの幽霊に会いたい気もする。あー、でもやっぱりおっかないから会わんでもいいな…。
今では俺にも子供が生まれ、精一杯の愛情を注いでいる…とでもなればいい終わり方なんだが、
残念ながらその気配はまったくない。
自分の小者ぶりを再確認しただけで、この話は終わるのでありました。

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